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ネットで友達を作るということ。
やっぱり気心知れた友達とは、メッセ(チャット)で話しても
楽しいですね。インターネットをはじめて数年はネットでも
お友達がいたけど、私が一時休止したり相手が忙しかったりで
結局疎遠になっちゃって。

本当に気の合う人間なんて男も女もそうそういないので、妥協
しないためにはネットでも何でも駆使して色んな人と会うことが
大事かもしれない。けれども、人間関係においてもやっぱり量より
質だな、と思います。

色んな人と出会うのもいいけど、一人の人間とじっくり付き合って
いくことが大事だなって。一緒に遊びにいくぶんには最高の友達
だけど、それ以上の部分においてはどうしても好きになれないとか、
その逆もあったりするわけですし。
だから量をこなすよりは、私はじっくり付き合いたいと思うわけです。

で、じっくり付き合うには、やっぱりバーチャルなやりとりだけでは
不十分だと思うんですね。チャットでこういうことを言ってる。
でもどんな顔してこんなことを言ってるんだろう。
付き合いを重ねた友達なら何となく想像できるけど、あったことも
ない人ならどうしようもありません。その表情、空気も考慮して
返答したいのに、文字通りの言葉に受け取るしかない。
こういった状況でのコミュニケーションはすごく難しいと思います。

ネット上で大親友を見つけて、親交が実際に会った後でも続いている
場合は、お互いに文字にできるだけの全てをこめて(つまり、書いて
いる通りの自分でいて)コミュニケーションした結果なんでしょうね。
私はついつい自分の暗部―短気だったりたまに陰気だったりする
自分を隠して、ひょうきんで大らかでいようとしてしまうから、
多分ネットで親友はできないと思います。
ただ、ネットならではの友人はできると思います。人間として
付き合って行くのは難しいとしても、「表現者」としてお互いに
インスパイアしあうような関係にはなれるじゃないかなと。
| 考え | 00:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
大阪教師殺傷事件から考えること。
「まじめで大人しい子」「ゲーム」「ひきこもり」…。
こうしたキーワードによって語られる事件の何と多いことか。

マスコミはいつものようにゲームに責任をおしつけ、ゲームを嗜む人は
それに反発する。こうした光景もいつものもの。

でも、根本的な問題はそこにはなくて、親の過干渉にあると私は思う。
つまり、「あれしちゃダメよ」「これをしなさい」と親が自分の子に
自分が思うような道を歩かせようとするアレ。
子供に道を用意し、その道にある石ころまでのけようとする親。
ここまで深く関わるのに、叱るべきところで叱ることはできない。
子供が彼らの用意した道から離れて行くことには「怒る」のに、
人の道から離れて行くことを「叱る」ことができない。
干渉と傍観のバランスが完全に逆転している。

あるコメンテーターが言った、「この子は親とゲームとしか関係が
築けないんですね」と。そうじゃない。親とコミュニケートが
出来る子が、他の人間とコミュニケート出来ないとは考えられそうも
ない。コミュニケートってのはただの会話ではなく、
「ここまでは賛成するけど、ここからは賛成できない」「ここまでは
認めるけどここからは認められない」という交渉だと私は思う。
親の命令に服従するのも、親を拒絶するのもコミュニケート
とは言えない。コミュニケートってのは経験によって出来るように
なるが、過干渉によって親は子から最初の経験を奪ってしまう。
「あの子とは遊んじゃダメよ」「うちの子にお宅のお子さんがこんなことを
したのよ」……。そうして知能の発達とコミュニケート能力が極度に
アンバランスになる。そうして、社会に溶け込めなくなっていく。

用意された道を歩きとおす子も勿論たくさんいる。
けれど、歩くだけなのが嫌になって逃れようとする子もたくさんいる。
ゲームに。あるいは非行に。ドラッグに。自傷行為に。
ゲームはその逃げ道の一つに過ぎない。

けれど、ゲームが完全に潔白だというわけではない。
ゲームは親の「外の世界」の歪んだ形だ。
ゲームは、基本的に力によって解決されていく。つまり、暴力によって。
昔のゲームならよかった。マリオがクッパを踏みつける光景は
あまりにデフォルメされていて、現実世界と錯覚しようがない。
しかしこの頃のゲームはリアルなので、「現実世界」を知る前に
この「外の世界」を知ってしまうことに危険性がある。
暴力で解決される歪んだ世界が、自分にとっての「外の世界」に
なってしまうのだ。

親の過干渉の背景にあるものは、その親が人間的に劣っている
ことではない。いわゆる少子化、核家族、近所との断絶―。
否が応にも、一人の子に関わりすぎてしまう。マスコミにも重大な
責任がある。「子供の権利」を声高に叫ぶマスコミに、
不安に包まれた親は子供をとにかく大切にすればいい、と
「大切にする」ことの意味を取り違えてしまう。教育の場において。
子供の将来を思っての英才教育は、子供同士が自由にぶつかり
合う経験を減らし、知能とコミュニケート経験のアンバランスを
更に助長してしまう。更に親は学校の先生と子供の関係についても
口出しし、また子供のコミュニケートの機会が失われる。
そして、子供と先生との関係は何処か他所他所しいものになってしまう。

こうしたことを背景とした過干渉が行われ、逃げぐちとして、身近な
ゲーム、非行、更にネットを通して知ったドラッグや自傷行為に
走ってしまう。この問題は複雑に連関しあっているので、単一の
要素にこだわっているままでは解決しそうにない。
が、その根底にあるのは過干渉である。過干渉は一部の親によって
なされているわけではない。この頃の大抵の親は過干渉をしている。
親がどんなに気をつけても、道端にある石ころを全部とりのぞく
ことはできないのだから、子供が転ぶ経験を、転んでもまた
起き上がることを知る経験を奪ってはならないのだ。
| 考え | 02:48 | comments(1) | trackbacks(0) |
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