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アンナ・カレーニナを読んで。−リアルとデフォルメ−
この物語の軸は3つ。
魅力的で都会的、だが破滅に終わるアンナとヴロンスキーの不倫と、
純真で素朴だが幸せに満ちたリョーヴィンとキチイの結婚生活、
欺瞞と怠惰に満ちているけれど波風の立たないドリイとオブロンスキー
の夫婦生活。

もちろんアンナたちの生活とリョーヴィンたちの生活が対比されている
のは明白だが、その両者の接点としてオブロンスキーとドリイの
生活が置かれているのが面白い
。あまり説明されていない
この生活こそが当時のロシアの貴族階級では一番普通でつまらない
ものであったのではないかと思う。妻と夫は愛し合ってはいないけれど、
惰性で夫婦生活を続け、夫は家庭を壊さない程度に不倫をし、
妻は夫の愛を受けられないぶん子供に情熱を注ぐ、という。
そして世間から見ては問題のない家庭生活を送っているように見える、
という。

オブロンスキーの生活を中心においてみると、アンナたち個人の愛を
つっきったけれど上手く行かなかったペア、リョーヴィンたち自分にも
他人にも善良な生活を送るペア、いづれもドラマチックに見えてくる。

この物語の面白いところは、恋愛だけでなく農業、政治、社会、
そして信仰と言う様々な部分を扱ったところにあると言われている。
またその人間描写・風景描写もリアリティを持っており優れている
と言われている。

テーマを捨象しなかったことが逆に当時の生活を生生しく感じさせる。
恋愛だけ、あるいは政治だけが当時代の人間の心を占めるものではない
ので、生き生きとした考える人間、動く人間を表現するのには優れた
表現だと感じる。が、逆にこのあまりにリアルな人間像がこの小説を
緩急の少ないものに見せているとも言えないだろうか。この物語には
大きな起承転結があるわけではなく、全て起承転結のある小さな
出来事の連鎖となっている。まさに人間の人生に単純な起承転結がない
ように。先にページを読みすすめたくなるような吸引力は残念ながら
私には感じることができなかった。そのため私のこの小説を読み終わった
第一の感想は、「ドストエフスキーのほうが面白い」というものだった。

が読み終わって少し時間がたったいま、ゆっくりとトルストイの面白さ
を味わっている。全てのエピソードが時系列的に脳味噌にたたきこまれ、
様々な苦悩をもった人間たちが生きている、ゆっくりとした現実的な時間
を感じられるのはトルストイ。

幾つかのエピソードと幾人かの人物が強烈な印象を残し、一定不変の
時間と言うよりも、ある人物の生きる緩急を持った人生を感じさせるのは
ドストエフスキー。

トルストイの作品も、ドストエフスキーの作品も、その中で時間が
経過していっているのだが、トルストイの時間は60秒が1分という
客観的な時間、ドストエフスキーの時間は楽しい時は一瞬という
主観的な時間のような気がする。人物描写もトルストイのほうが
よりそこらかしこにいそうな人間であり、ドストエフスキーのほうは
より異常な人間である気がする。

個人の好みはさておくとして、生き生きとした人間を
小説に描くには、リアルとデフォルメという二つの方法があるのでは
ないだろうか、と二人の巨匠を比較して感じた。
| | 20:01 | comments(4) | trackbacks(1) |
ファンタジーとマネー。
今年一番の大雪の中(関東では)ディズニーランドに行って来ました。
阿呆なのは分かってますが、地元から東京に遊びに来た友達がメイン
なので、その日に行かざるを得ず。期待と不安の同居という卒業式の
ような気分をかかえたまま「舞浜というかシベリア」なディズニーへ。

もうね、寒かったです。今日一日しか使えないカブリモノなんて
普段絶対買いませんが、趣味嗜好というより防寒のためミッキーの
耳あて購入。今日は特にカブリモノ率が高かったようです。
うんうん皆寒かったんだね。でも、おかげで物凄くすいてて、
一日で乗り物をほとんど制覇できました。
思えば雪のつもったビッグサンダーマウンテンなんてそうそう
見られるわけではない。それに、凍えながら見たナイトショーは
やけに印象に残っています。

やっぱり非現実的世界にいるように感じさせる、そういう力を
持ったテーマパークはディズニーだけだなと思いました。
実際はお上りさんいっぱいで混みまくりでめちゃくちゃ現実世界
なのですが、アトラクションのこりようといい、スタッフの
力の入れようといい(それがいいかは別として)
全力で非現実的世界を作り出そうとしてる。

そういう非現実的世界だからこそ、日常からの開放を求めて
何度も足を運ぶし、無駄なものをいっぱい買ってしまったりする。
ここで、ファンタジーがお金になってるんです。
冷静に考えると一々商売がうまいから、
「東京ディズニーランドっていうより千葉マネーワールドだよね」
って友達の一人がいってました。
日本に女子供がいなくならない限り、そして更に強大な競合相手が
あらわれない限り(これは映画のディズニーが明らかに衰退している
ことから考えられないわけではありませんが)
東京ディズニーランドは儲かり続けるでしょう。

アトラクション単体がどんなに面白くても、それだけではなかなか
継続的な収益の向上に繋がらないのは、非現実的世界を作り出す
ことこそ、儲けに繋がるからではないでしょうか。
テーマパークなんて、長居して飲み食いし、おみやげをいっぱい
買ってくれてなんぼですから。
| 日常 | 01:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
ネットで友達を作るということ。
やっぱり気心知れた友達とは、メッセ(チャット)で話しても
楽しいですね。インターネットをはじめて数年はネットでも
お友達がいたけど、私が一時休止したり相手が忙しかったりで
結局疎遠になっちゃって。

本当に気の合う人間なんて男も女もそうそういないので、妥協
しないためにはネットでも何でも駆使して色んな人と会うことが
大事かもしれない。けれども、人間関係においてもやっぱり量より
質だな、と思います。

色んな人と出会うのもいいけど、一人の人間とじっくり付き合って
いくことが大事だなって。一緒に遊びにいくぶんには最高の友達
だけど、それ以上の部分においてはどうしても好きになれないとか、
その逆もあったりするわけですし。
だから量をこなすよりは、私はじっくり付き合いたいと思うわけです。

で、じっくり付き合うには、やっぱりバーチャルなやりとりだけでは
不十分だと思うんですね。チャットでこういうことを言ってる。
でもどんな顔してこんなことを言ってるんだろう。
付き合いを重ねた友達なら何となく想像できるけど、あったことも
ない人ならどうしようもありません。その表情、空気も考慮して
返答したいのに、文字通りの言葉に受け取るしかない。
こういった状況でのコミュニケーションはすごく難しいと思います。

ネット上で大親友を見つけて、親交が実際に会った後でも続いている
場合は、お互いに文字にできるだけの全てをこめて(つまり、書いて
いる通りの自分でいて)コミュニケーションした結果なんでしょうね。
私はついつい自分の暗部―短気だったりたまに陰気だったりする
自分を隠して、ひょうきんで大らかでいようとしてしまうから、
多分ネットで親友はできないと思います。
ただ、ネットならではの友人はできると思います。人間として
付き合って行くのは難しいとしても、「表現者」としてお互いに
インスパイアしあうような関係にはなれるじゃないかなと。
| 考え | 00:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
「坂の上の雲」日照りより。
塾へ通う途中、買ったきり忘れていた「坂の上の雲(1)」を読む。

人に対して何らかの色を感じる人がいるというけど、私は文に色を感じる。
ちなみにドストエフスキーはどす黒い赤、ヘッセは水色、遠藤周作は濃紺。
司馬遼太郎の文はというと無色透明。色気がないとも言えるけど、すごく
澄んだ一瞬がある。話自体の面白さももちろんあるけれど、その一瞬の
ために私は司馬遼太郎を読むのだろうと思う。

で、坂の上の雲の続きを買おうとしたんだけど…。
ない、ない、ない。どこにもない。
坂の上の雲は確か再来年の大河ドラマになるらしいし、世間の評判に
よると司馬氏の最高傑作だというのに、置いてあっても一巻のあとは
7巻だったりと、販売サイドの意欲が感じられない。

読む世代の人は読み終えてしまっていて、若者=新しい読者がつかない
ということだろうか。その証拠に同じ司馬作品でも竜馬、燃えよ剣は
結構揃っている。かくいう私も日露戦争に興味を持てず、いかにも派手で
面白げな幕末に走って上記2作品を先に読み終えてしまった。

19歳はもちろん若輩だが、ある程度自分の興味を突っ走しり終えて、
行き詰ってしまう歳だと思っている。かといって、未知のものを恐れる
歳でもない。率直にいうと日本史の中の幕末以外のことも知りたくなった。
そういう年齢の自分にとって、坂の上の雲は大変面白い。
さほど本を読まない私ですらそうなのだから、坂の上の雲が若者にとって
いつまでも手に取りにくいものだというわけではないだろう。
それとも、坂の上の雲さえ置けないほど、日本人の本離れは深刻なのだろうか。
| | 23:42 | comments(0) | trackbacks(1) |
大阪教師殺傷事件から考えること。
「まじめで大人しい子」「ゲーム」「ひきこもり」…。
こうしたキーワードによって語られる事件の何と多いことか。

マスコミはいつものようにゲームに責任をおしつけ、ゲームを嗜む人は
それに反発する。こうした光景もいつものもの。

でも、根本的な問題はそこにはなくて、親の過干渉にあると私は思う。
つまり、「あれしちゃダメよ」「これをしなさい」と親が自分の子に
自分が思うような道を歩かせようとするアレ。
子供に道を用意し、その道にある石ころまでのけようとする親。
ここまで深く関わるのに、叱るべきところで叱ることはできない。
子供が彼らの用意した道から離れて行くことには「怒る」のに、
人の道から離れて行くことを「叱る」ことができない。
干渉と傍観のバランスが完全に逆転している。

あるコメンテーターが言った、「この子は親とゲームとしか関係が
築けないんですね」と。そうじゃない。親とコミュニケートが
出来る子が、他の人間とコミュニケート出来ないとは考えられそうも
ない。コミュニケートってのはただの会話ではなく、
「ここまでは賛成するけど、ここからは賛成できない」「ここまでは
認めるけどここからは認められない」という交渉だと私は思う。
親の命令に服従するのも、親を拒絶するのもコミュニケート
とは言えない。コミュニケートってのは経験によって出来るように
なるが、過干渉によって親は子から最初の経験を奪ってしまう。
「あの子とは遊んじゃダメよ」「うちの子にお宅のお子さんがこんなことを
したのよ」……。そうして知能の発達とコミュニケート能力が極度に
アンバランスになる。そうして、社会に溶け込めなくなっていく。

用意された道を歩きとおす子も勿論たくさんいる。
けれど、歩くだけなのが嫌になって逃れようとする子もたくさんいる。
ゲームに。あるいは非行に。ドラッグに。自傷行為に。
ゲームはその逃げ道の一つに過ぎない。

けれど、ゲームが完全に潔白だというわけではない。
ゲームは親の「外の世界」の歪んだ形だ。
ゲームは、基本的に力によって解決されていく。つまり、暴力によって。
昔のゲームならよかった。マリオがクッパを踏みつける光景は
あまりにデフォルメされていて、現実世界と錯覚しようがない。
しかしこの頃のゲームはリアルなので、「現実世界」を知る前に
この「外の世界」を知ってしまうことに危険性がある。
暴力で解決される歪んだ世界が、自分にとっての「外の世界」に
なってしまうのだ。

親の過干渉の背景にあるものは、その親が人間的に劣っている
ことではない。いわゆる少子化、核家族、近所との断絶―。
否が応にも、一人の子に関わりすぎてしまう。マスコミにも重大な
責任がある。「子供の権利」を声高に叫ぶマスコミに、
不安に包まれた親は子供をとにかく大切にすればいい、と
「大切にする」ことの意味を取り違えてしまう。教育の場において。
子供の将来を思っての英才教育は、子供同士が自由にぶつかり
合う経験を減らし、知能とコミュニケート経験のアンバランスを
更に助長してしまう。更に親は学校の先生と子供の関係についても
口出しし、また子供のコミュニケートの機会が失われる。
そして、子供と先生との関係は何処か他所他所しいものになってしまう。

こうしたことを背景とした過干渉が行われ、逃げぐちとして、身近な
ゲーム、非行、更にネットを通して知ったドラッグや自傷行為に
走ってしまう。この問題は複雑に連関しあっているので、単一の
要素にこだわっているままでは解決しそうにない。
が、その根底にあるのは過干渉である。過干渉は一部の親によって
なされているわけではない。この頃の大抵の親は過干渉をしている。
親がどんなに気をつけても、道端にある石ころを全部とりのぞく
ことはできないのだから、子供が転ぶ経験を、転んでもまた
起き上がることを知る経験を奪ってはならないのだ。
| 考え | 02:48 | comments(1) | trackbacks(0) |
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